言った瞬間、ハナビは障子を突き破って襲来したネジに後ろ頭をぶん殴られた。
「やっ…やーーっ!!ネジ兄さん、こっち見ちゃダメ…!」
ぱしゃん、と水音がして湯を張った洗面器がひっくり返り、泡溜まりを排水溝へ押し流す。
ヒナタは振り向くネジの肩を押しやろうとするが、力では到底敵わないことは知っていた。
だから血肉に刻まれた体術のセオリー通りに自分の体重をかけて肩を押すのだが、
そうすると自然にネジの体にすがりつくような形になってしまう。
背中に感じる、泡にまみれたヒナタの細い腕と掌、そして指の感触。
この体勢なら、もう少し力を込めれば脇が開いて一糸纏わぬヒナタのアレが当たるはずだ。
いっそ本気で振り向けば、泡に滑ったヒナタの体重を膝の上で抱きとめたり
温まったタイルの上に押し倒したりできるかもしれないいやオレならやれる。
胸の内で喚きだす自分の顔をした悪魔を鉄の理性で制しながら、
「オレだけ洗ってもらって申し訳ない。お返しに、背中でも流しますから」
「そっそんなこと…しなくていいから…っ」
「じゃあ肩揉んであげますから」
「いい、いいですっってばー!!」
「変だな…風呂入ろうって言ったのはヒナタ様の方なのに、背中も流させてもらえないのか」
「わ、私はいいの!」
頑として言い張る姿勢にこれ以上押すのは愚行だと悟ったネジは、小さく「そうか…」と肩を落とす。
「しかし…いいものだな、誰かと風呂に入るというのは。」
「・・・・ぇ…?」
「オレはずっと何をするにも一人だったから…こうしてヒナタ様と一緒に風呂に入ってると」
…家族とは、こういうものだろうかと思う。
その言葉を聞いたヒナタが静かに息を呑んだのに気付かなければ、自分が卑怯なことを言ったとは思わなかったろう。
それほどそこは静かで安らかで和やかで、自分を飾る理由も言葉を選ぶ必要もない世界だった。
そう、だから言ったんだ。
仕合わせとはこういうことだろうかと。
結果卑怯でも知るものか。
この毅然とした素直さはしかし思いがけず功を奏した。
「・・・・・・。」
しばらく沈黙したヒナタが、意を決したように
「ね、ネジ兄さん…」
「何だ?」
「あの・・・
あのぅ…
やっぱり…私も
あ、あ洗って、
もらおう… かな…」
努めて何気ないように言おうとしつつも声は上ずっている。揉みくちゃに抱きしめたくなるほどかわいい。
ネジは表情筋が幸せに緩んでいくのが止められなかった。
「ウフッウフフフフフッ・・・・ウん?」
「ハナビちゃん、ハナビちゃん大丈夫?!」
ネジの意識は幸いにも、最も愛しい声によって現し世へ引き戻された。
「なんか幸せそうですよ?このままどっかに埋めてきましょうか」
「ネジ兄さんっどうしてこんな酷いことをするの?!」
「ヴッ?!」
いつも優しい姉から生まれて初めて詰問され、ハナビはぎょっとする。
「あ・・・わ、私は…っいや…」
確かに今の自分をはたから見れば宗家のプライベートエリアを侵犯し、
問答無用で幼子を張り倒した兇賊にしか見えない。と、この時気付く。
「し、しかし…それはこのヒトが…あ、いや、宗家のハナビ様が…ですね、」
しどろもどろ申し開きを試みるハナビ。ヒナタは悲しそうにかぶりを振る。
「宗家とか、そういう事を言ってるんじゃありません…こんな小さな子にあんな乱暴なことを…ネジ兄さんが…」
「ゲスなヤロウですね、姉さま。」
「ッ!!!」
いつの間にネジはヒナタの腕の中で、その胸に頭を預け、ヒナタの死角で嘲り笑っている。
(コッッッコノヤローー!!!!)
ハナビは悔しさに気が遠くなりかけた。
しかし湧き上がる怒りに任せて行動すれば更なる窮地に立たされるのは目に見えている。
公明正大な姉は今、どうかしてしまったみたいに盲目的にネジを庇い、ハナビに嘆じている。
あの姉上が理由も聞いてくれないなんて…(説明できる自信もないが)!
そうか…そういうメソッドか。
姉はなぜ、いつもこの男の肩を持つのかと不思議に思っていたが実は違う。
彼女は故意か無意識か、根本的にハナビに贔屓目な物差しで二人を見ているのだ。
それをネジは知っているから、ハナビが10仕掛ければ5までしか返さない。
己を被害者に位置付けるというケチ臭い手口で、まんまとヒナタの庇護を得ていたのだ。
十八番「だってコイツが!!」を封じられたのはハラワタを傷めそうなほど悔しいが、
外見がネジである以上このままハナビとして振舞い続けてはいずれ身の破滅を招く。
ネジにはネジの戦い方というものがあったのだ。
そこでハナビは、二人の前に正座して言った。
「申し訳ありませんハナビ様、あなたの守護霊があなたを絞め殺そうとしてたのでつい」
「どんな守護霊だ (くだらん事言ってないでさっさとオレの体を返せ)」
「さあ…父によく似た若い男でしょうか (それができればとっくの昔にしてるっつの)!!」
「さっそくボロが出てるぞボロが (この奇跡的境遇を前にこんな体でいろってのか!!)?!」
「そうかあなたは守護霊までケダモノだったか (風呂で何する気だ!!大体それは私の体だからこそ起こる奇跡だろうが!!)」
「いいや今のオ…私はかつてなく草食系な気がする(お前な…そんな謝罪がどこの極楽トンボに通じると思っているんだ)」
しまった曲がりなりにも自分は謝らねばならなかったのだ。
怖々姉を見ると、予想に反し気が削がれたように苦笑している。
「よかった…いつもの仲良しさんに戻って。」
極楽トンボをなめてはいけない。
この静かなる舌戦が仲良しさんに見えているとは(しかも今日始まった認識ではなさそうだ)
ハナビはいいようのない苛立ちを感じたが、咳払いと共に自分が押し倒した障子を立てかけ
「とにかく、心配いりませんから風呂に入るんならさっさと入ってきなさい…ヒナタさま。」
「う?うん。」
「はあい。」
「あんたに言ってない!!」
「冗談。冗談ですよネジさんアハハ」
本気だったくせにーー!!!!
ハナビの絶叫は音に出ず、ただネジの細胞という細胞に響き渡るだけだった。